2009年09月07日
会報から(220-p14)
「明治25年、キリンビールと明治屋と廣目屋は
宣伝上手だったという話」 其の4
大門 千
前回紹介した「ゑん(縁)かいな節」に明治屋の名前がやっと出てきました。
開らけた明治屋威勢よく麒麟が御用を勤め上げ麦酒(ビール)の噂も高棲(たかどの)に響き渡った運かいな
今回は、麒麟麦酒と明治屋と廣目屋がどういう「縁」で結ばれたか、という話です。
実は、廣目屋は創業以来いまも広告代理店として盛業中でした! 同社のHPによると現在地は東京都中央区銀座1丁目6。廣目屋の創業者である秋田柳吉は愛媛県出身。明治15年(1882)に辰馬貞(関西財閥であった辰馬半蔵の妹)と結婚し、辰馬半蔵の後援のもとに大阪天神橋ぎわに酒問屋「秋田屋」を開業しました。辰馬といえば清酒「白鹿」の辰馬本家醸造(株)。灘の嘉納家、山邑家と並ぶ斯界随一の老舗酒造家です。柳吉の生年と素性がハッキリしませんが、たぶん辰馬本家と縁のある貞さんと結婚したので、大阪で酒問屋を開けたのでしょう。しかし、数年して上京し明治21年、東京市京橋区五郎兵衛町(現在の東京都中央区八重洲2丁目)に廣目屋を開業します。廣目屋の命名は仮名垣魯文だそうです。当初は「楽隊広告」、いわゆるチンドン屋として知られ、「西の東西屋、東の廣目屋」と呼ばれました。
仮名垣魯文は文政12年(1829)生まれ、明治27年(1894)に享年65歳で頻しています。廣目屋開業時には60歳前後。江戸戯作の血を引いた魯文は、明治4年(1871)の『安愚楽鍋』や同18年(1890)の『小説神髄』が文学史にその名を残していますが、日々の生計は新聞・雑誌の経営と広告の案文作成(いまでいうコピーライター)でした。飲食店の開業挨拶や菓子などの新商品の紹介を千字ほどの戯文にまとめ、それに木版図絵を添えて一枚の刷り物にして配りました。当時は「散し文」とか「引き札」とよばれていました。
例えば、江戸から明治にかわる頃、魯文は水道橋の蕎麦屋「三崎庵」開店の挨拶をこんなふうに始めました。
泰平茲に三百年。治世に蘭麺を忘ずとは。釜前に鉄砲鈎笊を横へ。板前に打棒の秘術を尽す。更科流の奥意にして。西洋流の南蛮類。うどんと響く筒音の。目的ははづさぬ御当所へ。陣を居たる新店は。‥‥‥
「治世に蘭麺を忘ず」とは「治世に乱を忘れず」の語呂合わせ。「蘭麺」は「卵麺」とも書き、その昔長崎から逃れた吉利支丹が東北に伝えた云々と。「鉄砲笊」は、これもその昔「くずイ〜お払い〜ツ」の屑屋が背負っていた篭のことですが、蕎麦を茄でる際の笊に見立てたのでしょうか。
このように縁語や掛詞を駆使して、〔磯あられ〕〔鯛麺〕〔天魅羅〕〔茶蕎麦〕〔色競〕〔花巻〕〔五色そば〕〔自蘭〕〔鶏卵そば〕〔親子南蛮〕〔鴨南蛮〕のお品書きを書き連ねて御光来を願いました。
*
一方、明治屋を起こした磯野計(いそのはかる)については、竹越輿三郎が昭和10年明治屋に請われて執筆した『磯野計君傳』(明治屋刊、非売品)が一番の資料なのですが、惜しむらくは麒麟麦酒関係の情報が豊富とは言いかねます。ここは日本酒に関する本も書いている稲垣眞美の『日本のビール』(中公新書、1978刊)を参照しながら記していきます。
磯野計は安政5年(1858)美作国津山(現岡山県津山市)に松平藩士磯野湊の次男として生まれました。父に蘭学と英語の手ほどきを受け、明治3年(1870)に津山藩の推薦で大学南校(東大の前身)に入学し、法律学を学んで、明治12年(1879)に卒業しました。卒業後、官途に就くことをせず、代書人(弁護士)を開業しました。磯野には「民間にあって手に唾して事を為すべし」という気概がありました。
一年後、転機が訪れます。明治13年(1886)郵便汽船三菱会社の給費留学生に選ばれ、勇躍ロンドンへ旅立ちました。(この辺で計の青春に興味を持たれたら是非?章の「磯野計と明治屋」を読んでください。蘭学者の箕作院甫、後の首相加藤高明、?日本麦酒社長の馬越恭平が登場します)。
さて、磯野はロンドンで何を学んだか?同じ留学生仲間は法律を学びましたが、彼は回船仲立ち業を営むノリス&ジョイナー商会に見習いとして入り、帰国するまでの4年間船舶業界全般にわたる知識を吸収しました。帰国する明治17年(1884)、三菱の買い付けた新造船「横浜丸」の事務長として帰途につきました。竹越によると、この時の船員はすべて英国人で日本人は磯野ただ一人だったようです。
事務長職とは運航に必要な物品の調達が主な仕事なので、寄港地で食料から雑用品まで買い付けました。この仕事って、後の明治屋の業態の予行演習みたいなものですね。
帰国の翌年(1885)、留学の世話になった郵便汽船三菱とライバル会社の共同運輸が合同して日本郵船が設立されると、磯野は同社への船舶必需品納入の権利を得ます。英語で「シップチャンドラー」と呼ばれる商売です。この種の権利はいままでイギリスやデンマークなど海外の商社に独占されていましたので、権利奪回には磯野の心中に期するところがあったはずです。
明治19年(1886)2月、磯野は横浜に船舶用品納入業兼食料品卸および小売業の「明治屋」を開店しました。時に29歳。商売への意気込みが『御代の瑞(みよのしるし)』の巻頭に「正銘上等洋酒洋食品舶来煙草広告」という題の文章というか宣言によくあらわれていますので、引き写します。「正銘」は「正真正銘」のことで本物志向という意味です。
弊店販売の洋酒洋食品併(ならび)に舶来煙草は悉皆(しっかい)[すべて]欧米各国の製造元より直接の仕入れにして紛れもなき正銘上等晶なるに付き随て其代価も他店に比して聊か高値なるは事実に相違無之(これなく)高値は即ち正銘の実正代価少し高くして物品大(おお)いに美なるは弊店の本色(ほんしょく)[モットー]に御座候。然(しか)るに世上は萬物皆下値の流行、洋酒洋食も其流行中にながれて上等品を売る者甚(はなは)だ少し。弊店獨り既に悪害を除きたり。世間衛生上に身を重んずる貴客は弊店へ光願を賜り度(たく)、或は一時に弐百円以上の御注文とあれば総ての品々些少(さしょう)の手数料のみにて彼の本国製造元より御取次可致(いたすべく)弊店の面目これに過ぎざるなり。
弊店の営業商品を大略左に記載致し置候間(あいだ)「・ので]御一覧を乞ふ。
−、西洋各国調整 肉類・魚類・野菜類・確詰・瓶詰、各種
−、洋酒 各品
−、菓子及ビスケット品々
−、ミルク並びに茶の類数々
−、砂糖類
−、金銀陶器硝子食器類一切
−、シャボン「ペア製造」香水種々蝋燭色々
−、葉巻紙巻刻ミ煙草
右之品々何れも各国有名なる製造元と特を結び便船ごとに輸入致し候得ば品々も然新鮮にして且値も他人の手を経ざれ
精々廉債に差上られべく候。
明 治 屋 謹白
扱い商品名は、マニラ煙草、米国バージニア煙草、ニューヨークのコンデンスミルク、英国シチーフイールドの刃物、サンフランシスコのインキ等々。サンフランシスコからは三輪車を輸入しました。
明治屋は好スタートを切りました。その頃、磯野の商業圏に二人の外国人がおりました。トーマス・B・グラバーと W・H・タルボットです。安永6年(1859)21歳で長崎に来たグラバーの事績はみなさんご承知の通りですが、あのグラバー邸を建てたのが25歳の時であったとは、幕末日本での兵器商売の旨みの莫大であったことが推し量られます。維新なって、明治18年頃グラバーは三菱財閥の相談役をしていました。W・H・タルボットは横浜で英字新聞「ジャパンガゼット」を発行していた英国人ですが、明治18年7月友人と山ノ手にビール醸造会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」(JBC)を設立しました。この会社が三年後「麒麟麦酒」を売り出すのですが、それは後述するとして。
タルボットにJBC設立を勧めたのがグラバーでした。同時に新商品「麒麟麦酒」の国内販売権を明治屋の磯野に与えるようJBCの外人重役に働きかけたのもグラバーでした。実は、タルボットも日本郵船の顧問をつとめていたので、磯野とはすでに知り合いでした。当の磯野もタルボットにJBCの販売理店を引き受けたい旨の書簡を送りました。グラバーとタルボットと磯野の三角関係が見えてきましたね。
宣伝上手だったという話」 其の4
大門 千
前回紹介した「ゑん(縁)かいな節」に明治屋の名前がやっと出てきました。
開らけた明治屋威勢よく麒麟が御用を勤め上げ麦酒(ビール)の噂も高棲(たかどの)に響き渡った運かいな
今回は、麒麟麦酒と明治屋と廣目屋がどういう「縁」で結ばれたか、という話です。
実は、廣目屋は創業以来いまも広告代理店として盛業中でした! 同社のHPによると現在地は東京都中央区銀座1丁目6。廣目屋の創業者である秋田柳吉は愛媛県出身。明治15年(1882)に辰馬貞(関西財閥であった辰馬半蔵の妹)と結婚し、辰馬半蔵の後援のもとに大阪天神橋ぎわに酒問屋「秋田屋」を開業しました。辰馬といえば清酒「白鹿」の辰馬本家醸造(株)。灘の嘉納家、山邑家と並ぶ斯界随一の老舗酒造家です。柳吉の生年と素性がハッキリしませんが、たぶん辰馬本家と縁のある貞さんと結婚したので、大阪で酒問屋を開けたのでしょう。しかし、数年して上京し明治21年、東京市京橋区五郎兵衛町(現在の東京都中央区八重洲2丁目)に廣目屋を開業します。廣目屋の命名は仮名垣魯文だそうです。当初は「楽隊広告」、いわゆるチンドン屋として知られ、「西の東西屋、東の廣目屋」と呼ばれました。
仮名垣魯文は文政12年(1829)生まれ、明治27年(1894)に享年65歳で頻しています。廣目屋開業時には60歳前後。江戸戯作の血を引いた魯文は、明治4年(1871)の『安愚楽鍋』や同18年(1890)の『小説神髄』が文学史にその名を残していますが、日々の生計は新聞・雑誌の経営と広告の案文作成(いまでいうコピーライター)でした。飲食店の開業挨拶や菓子などの新商品の紹介を千字ほどの戯文にまとめ、それに木版図絵を添えて一枚の刷り物にして配りました。当時は「散し文」とか「引き札」とよばれていました。
例えば、江戸から明治にかわる頃、魯文は水道橋の蕎麦屋「三崎庵」開店の挨拶をこんなふうに始めました。
泰平茲に三百年。治世に蘭麺を忘ずとは。釜前に鉄砲鈎笊を横へ。板前に打棒の秘術を尽す。更科流の奥意にして。西洋流の南蛮類。うどんと響く筒音の。目的ははづさぬ御当所へ。陣を居たる新店は。‥‥‥
「治世に蘭麺を忘ず」とは「治世に乱を忘れず」の語呂合わせ。「蘭麺」は「卵麺」とも書き、その昔長崎から逃れた吉利支丹が東北に伝えた云々と。「鉄砲笊」は、これもその昔「くずイ〜お払い〜ツ」の屑屋が背負っていた篭のことですが、蕎麦を茄でる際の笊に見立てたのでしょうか。
このように縁語や掛詞を駆使して、〔磯あられ〕〔鯛麺〕〔天魅羅〕〔茶蕎麦〕〔色競〕〔花巻〕〔五色そば〕〔自蘭〕〔鶏卵そば〕〔親子南蛮〕〔鴨南蛮〕のお品書きを書き連ねて御光来を願いました。
*
一方、明治屋を起こした磯野計(いそのはかる)については、竹越輿三郎が昭和10年明治屋に請われて執筆した『磯野計君傳』(明治屋刊、非売品)が一番の資料なのですが、惜しむらくは麒麟麦酒関係の情報が豊富とは言いかねます。ここは日本酒に関する本も書いている稲垣眞美の『日本のビール』(中公新書、1978刊)を参照しながら記していきます。
磯野計は安政5年(1858)美作国津山(現岡山県津山市)に松平藩士磯野湊の次男として生まれました。父に蘭学と英語の手ほどきを受け、明治3年(1870)に津山藩の推薦で大学南校(東大の前身)に入学し、法律学を学んで、明治12年(1879)に卒業しました。卒業後、官途に就くことをせず、代書人(弁護士)を開業しました。磯野には「民間にあって手に唾して事を為すべし」という気概がありました。
一年後、転機が訪れます。明治13年(1886)郵便汽船三菱会社の給費留学生に選ばれ、勇躍ロンドンへ旅立ちました。(この辺で計の青春に興味を持たれたら是非?章の「磯野計と明治屋」を読んでください。蘭学者の箕作院甫、後の首相加藤高明、?日本麦酒社長の馬越恭平が登場します)。
さて、磯野はロンドンで何を学んだか?同じ留学生仲間は法律を学びましたが、彼は回船仲立ち業を営むノリス&ジョイナー商会に見習いとして入り、帰国するまでの4年間船舶業界全般にわたる知識を吸収しました。帰国する明治17年(1884)、三菱の買い付けた新造船「横浜丸」の事務長として帰途につきました。竹越によると、この時の船員はすべて英国人で日本人は磯野ただ一人だったようです。
事務長職とは運航に必要な物品の調達が主な仕事なので、寄港地で食料から雑用品まで買い付けました。この仕事って、後の明治屋の業態の予行演習みたいなものですね。
帰国の翌年(1885)、留学の世話になった郵便汽船三菱とライバル会社の共同運輸が合同して日本郵船が設立されると、磯野は同社への船舶必需品納入の権利を得ます。英語で「シップチャンドラー」と呼ばれる商売です。この種の権利はいままでイギリスやデンマークなど海外の商社に独占されていましたので、権利奪回には磯野の心中に期するところがあったはずです。
明治19年(1886)2月、磯野は横浜に船舶用品納入業兼食料品卸および小売業の「明治屋」を開店しました。時に29歳。商売への意気込みが『御代の瑞(みよのしるし)』の巻頭に「正銘上等洋酒洋食品舶来煙草広告」という題の文章というか宣言によくあらわれていますので、引き写します。「正銘」は「正真正銘」のことで本物志向という意味です。
弊店販売の洋酒洋食品併(ならび)に舶来煙草は悉皆(しっかい)[すべて]欧米各国の製造元より直接の仕入れにして紛れもなき正銘上等晶なるに付き随て其代価も他店に比して聊か高値なるは事実に相違無之(これなく)高値は即ち正銘の実正代価少し高くして物品大(おお)いに美なるは弊店の本色(ほんしょく)[モットー]に御座候。然(しか)るに世上は萬物皆下値の流行、洋酒洋食も其流行中にながれて上等品を売る者甚(はなは)だ少し。弊店獨り既に悪害を除きたり。世間衛生上に身を重んずる貴客は弊店へ光願を賜り度(たく)、或は一時に弐百円以上の御注文とあれば総ての品々些少(さしょう)の手数料のみにて彼の本国製造元より御取次可致(いたすべく)弊店の面目これに過ぎざるなり。
弊店の営業商品を大略左に記載致し置候間(あいだ)「・ので]御一覧を乞ふ。
−、西洋各国調整 肉類・魚類・野菜類・確詰・瓶詰、各種
−、洋酒 各品
−、菓子及ビスケット品々
−、ミルク並びに茶の類数々
−、砂糖類
−、金銀陶器硝子食器類一切
−、シャボン「ペア製造」香水種々蝋燭色々
−、葉巻紙巻刻ミ煙草
右之品々何れも各国有名なる製造元と特を結び便船ごとに輸入致し候得ば品々も然新鮮にして且値も他人の手を経ざれ
精々廉債に差上られべく候。
明 治 屋 謹白
扱い商品名は、マニラ煙草、米国バージニア煙草、ニューヨークのコンデンスミルク、英国シチーフイールドの刃物、サンフランシスコのインキ等々。サンフランシスコからは三輪車を輸入しました。
明治屋は好スタートを切りました。その頃、磯野の商業圏に二人の外国人がおりました。トーマス・B・グラバーと W・H・タルボットです。安永6年(1859)21歳で長崎に来たグラバーの事績はみなさんご承知の通りですが、あのグラバー邸を建てたのが25歳の時であったとは、幕末日本での兵器商売の旨みの莫大であったことが推し量られます。維新なって、明治18年頃グラバーは三菱財閥の相談役をしていました。W・H・タルボットは横浜で英字新聞「ジャパンガゼット」を発行していた英国人ですが、明治18年7月友人と山ノ手にビール醸造会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」(JBC)を設立しました。この会社が三年後「麒麟麦酒」を売り出すのですが、それは後述するとして。
タルボットにJBC設立を勧めたのがグラバーでした。同時に新商品「麒麟麦酒」の国内販売権を明治屋の磯野に与えるようJBCの外人重役に働きかけたのもグラバーでした。実は、タルボットも日本郵船の顧問をつとめていたので、磯野とはすでに知り合いでした。当の磯野もタルボットにJBCの販売理店を引き受けたい旨の書簡を送りました。グラバーとタルボットと磯野の三角関係が見えてきましたね。
なぜ、明治屋が国内販売権(正しくは横浜と長崎を除いた国内の全地域ですが)、を得ることができたのか? 『日本のビール』が簡潔に記しています。
「当時は外人が自由に日本人と雑居したり、国内を旅行することは許されていない。そのため日本人に広く販売するためには、日本人代理店を通さねばならない。そこで売捌機関として選ばれたのが、新興の磯野計の明治屋だった。」(もっとも明治屋は無競争で権利を得たそうです。またJBC自体が有限責任会社として登記したのは香港でした。)
逆に、なぜJBCの経営に日本の財界人が参画できなかったのか? この点についても、稲垣は次のように説明しています。JBCの前身である「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」が売却されるという時に、「ビール企業を有望とみた三菱系の人々や渋沢栄一などの間に、日本人の手で買い取ろうとする動きもあった。しかし、安政の?不平等条約?のため、外人居留地の資産を日本人は自由に取得することができない。そこで、三菱の顧問格であったグラバーなどが間に入って、まず外人会社を設立し、日本人はあとから資本参加することをふくみとした案がすすめられた。」学校の日本史の教科書で確かに出てきた?安政の不平等条約?が時を経て実感されます。当時の日本人はこんな場面で「不平等」の壁にはね返されていたのだなあ、と。
*
「麒麟麦酒」は明治21年(1888)5月に発売されました。磯野は販路拡張に不可欠な広告宣伝にアイデアを連発しました。新聞雑誌は定番ですが、大は当時盛んに開催された「勧業博覧会」への出展から宣伝カーを使った「街頭宣伝」、中は鉄道駅待合室の額縁付ポスター掲示、日本橋際の蔵の壁を借用した壁面広告。小は団扇やネーム入りの小物の数々。現代のように広告代理店が関与して仕切るというような時代ではありませんでしたから、磯野は広告宣伝手法開発の魁(さきがけ)でもありました。
わたしがこの文章を書く気になったのは、実は明治屋の広告宣伝を記したいくつかの文献に『御代の瑞』一冊について言及しているものがなかったからです。大々的な広告宣伝についてはキリンビールの社史等を見ていただくとして、『御代の瑞(しるし)』という小物というか軟派物から磯野計の仕事を引き続き見てみましょう。
*
関連資料の一編に、発売当時「大阪では音楽隊が結成され」たという指摘をみつけました。大阪の楽隊といえば東西屋です。ということは、西に対する東の「廣目屋」を磯野は知っていたでしょうし、それで秋田柳吉に『御代の瑞』の製作依頼がきたのではないでしょうか。
明治25年(1892)、日本麦酒の社長に就任した馬越恭平は、「恵比寿麦酒」を売って売って傾き掛けていた社業を盛り返し、後に「日本のビール王」と呼ばれた人ですが、この人も磯野と同様に広告宣伝のアイデアマンでした。彼はビールを売り広めるには「四つのシャ」が大切であると力説したそうです。「四つのシャ」とは何か? それは、「役者」「芸者」「学者」「医者」という四つの「シャ=者」です。役者と芸者にはその人気を利用して口コミをはかる。学者にはビールのプレステージを称揚してもらい、医者にはビールが衛生飲料であることを保証してもらう。芸者起用の効果の一端が『御代の瑞』にあらわれています。わたしは、ページを繰って「新橋 ぽん太」という当時売れっ子の芸者の名前を探しました。その理由は・‥
*
明治23年(1890)、上野で第三回内国勧業博覧会が開催されました。磯野は会場内に麒麟麦酒の樽形をしたビヤホールを建て、願麟麦酒を飲ませました。(キリッと冷えていたかどうかは未詳です)。
余談ですが当時のビールの値段は、明治26年で大瓶一本が14〜18銭、盛りそば1銭2厘、天井3銭、白米10kgが67銭。ビールの年間消費量は0.16本/人だったそうです。閑話休題。
さて、その博覧会場で配ったポスターに描かれていたのが新橋芸者の「ぽん太」。ぽん太が願麟麦酒のうちわを持って涼んでいる図でした。『御代の瑞』に載っている新橋の芸者を探すと、喜世子、〆子、笠松、ます、の四名だけで、ぽん太作の発句や都々逸はありませんでした。が、ぽん太の生年を明治13年とする資料があって、そうだとすればポスターに描かれた時のぽん太はたぶん十歳かそこら、『御代の瑞』の編集時でも11歳か12歳? 没年は大正14年享年46歳だったいう資料から逆算すると、それくらいの歳ということになりますが、本当かなあ、大いにサバをよんでないかいなと疑問がわきますね。
ぽん太は17歳の時に落籍されたので、上の写真は少なくともそれ以前の少女時代ですが、さてみなさんどうですか?
*
なぜ、ぽん太が起用されたか? 『御代の瑞』が発行される二年前に第三回内国勧業博覧会が開催されていますので、康目屋秋田柳吉はその頃には各地の遊郭とつながりを持っていなければ、あの冊子は編集できなかったでしょう。秋田は新橋のぽん太の起用を磯野に提案し、磯野はそれにGO!サインを出したと想像できせんか。その傍証というほどのことでもないのですが−。
ぽん太を落籍した鹿島(かじま)清兵衛は、新川の酒問屋の老舗鹿島屋の八代目。ぽん太と出会った頃は25歳すぎの写真狂の青年でした。片や秋田柳吾妻の貞は灘の辰馬家と縁ある家の出です。清兵衛と柳吉のふたりも、新川の酒問屋のどこかで出会ったかもしれません。辰馬家と鹿島屋の縁かいなあ、です。柳吉、ぽん太、清兵衛の三角関係がほの見えます。ぽん太と鹿島清兵衛ふたりのことは戸板康二の「鹿島清兵衛のぽん太」(『ぜいたく列伝』所収)、白州正子著『遊鬼』にくわしく措かれています。
*
磯野計は麒麟麦酒の販売戦線に八面六管の活躍をしながら同時に、明治日本の産業振興に役立んものと、北越鉄道(JR信越線の前身)のレールを英国から調達したり等、シップチャンドラーの枠を超えて大きく飛躍しようとしていましたが、明治30年12月14日、ハイキン症?(竹越は急性肺炎)で急逝。享年わずかに39歳でした。明治政府と結託した三菱や三井という財閥とはあゆみを共にせず、貿易立国をめざした磯野の計画は夢と消えました。主亡き後の明治屋は12歳の一人娘菊子の成長を待ち望みつつ、計を支えた経営陣が堅実に「シップチャンドラーとしての明治屋」を引き継ぐことになりました。
次回は、補遺として「麒麟麦酒の大演説」「明治屋は月桂冠も扱った話」です。
「当時は外人が自由に日本人と雑居したり、国内を旅行することは許されていない。そのため日本人に広く販売するためには、日本人代理店を通さねばならない。そこで売捌機関として選ばれたのが、新興の磯野計の明治屋だった。」(もっとも明治屋は無競争で権利を得たそうです。またJBC自体が有限責任会社として登記したのは香港でした。)
逆に、なぜJBCの経営に日本の財界人が参画できなかったのか? この点についても、稲垣は次のように説明しています。JBCの前身である「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」が売却されるという時に、「ビール企業を有望とみた三菱系の人々や渋沢栄一などの間に、日本人の手で買い取ろうとする動きもあった。しかし、安政の?不平等条約?のため、外人居留地の資産を日本人は自由に取得することができない。そこで、三菱の顧問格であったグラバーなどが間に入って、まず外人会社を設立し、日本人はあとから資本参加することをふくみとした案がすすめられた。」学校の日本史の教科書で確かに出てきた?安政の不平等条約?が時を経て実感されます。当時の日本人はこんな場面で「不平等」の壁にはね返されていたのだなあ、と。
*
「麒麟麦酒」は明治21年(1888)5月に発売されました。磯野は販路拡張に不可欠な広告宣伝にアイデアを連発しました。新聞雑誌は定番ですが、大は当時盛んに開催された「勧業博覧会」への出展から宣伝カーを使った「街頭宣伝」、中は鉄道駅待合室の額縁付ポスター掲示、日本橋際の蔵の壁を借用した壁面広告。小は団扇やネーム入りの小物の数々。現代のように広告代理店が関与して仕切るというような時代ではありませんでしたから、磯野は広告宣伝手法開発の魁(さきがけ)でもありました。
わたしがこの文章を書く気になったのは、実は明治屋の広告宣伝を記したいくつかの文献に『御代の瑞』一冊について言及しているものがなかったからです。大々的な広告宣伝についてはキリンビールの社史等を見ていただくとして、『御代の瑞(しるし)』という小物というか軟派物から磯野計の仕事を引き続き見てみましょう。
*
関連資料の一編に、発売当時「大阪では音楽隊が結成され」たという指摘をみつけました。大阪の楽隊といえば東西屋です。ということは、西に対する東の「廣目屋」を磯野は知っていたでしょうし、それで秋田柳吉に『御代の瑞』の製作依頼がきたのではないでしょうか。
明治25年(1892)、日本麦酒の社長に就任した馬越恭平は、「恵比寿麦酒」を売って売って傾き掛けていた社業を盛り返し、後に「日本のビール王」と呼ばれた人ですが、この人も磯野と同様に広告宣伝のアイデアマンでした。彼はビールを売り広めるには「四つのシャ」が大切であると力説したそうです。「四つのシャ」とは何か? それは、「役者」「芸者」「学者」「医者」という四つの「シャ=者」です。役者と芸者にはその人気を利用して口コミをはかる。学者にはビールのプレステージを称揚してもらい、医者にはビールが衛生飲料であることを保証してもらう。芸者起用の効果の一端が『御代の瑞』にあらわれています。わたしは、ページを繰って「新橋 ぽん太」という当時売れっ子の芸者の名前を探しました。その理由は・‥
*
明治23年(1890)、上野で第三回内国勧業博覧会が開催されました。磯野は会場内に麒麟麦酒の樽形をしたビヤホールを建て、願麟麦酒を飲ませました。(キリッと冷えていたかどうかは未詳です)。
余談ですが当時のビールの値段は、明治26年で大瓶一本が14〜18銭、盛りそば1銭2厘、天井3銭、白米10kgが67銭。ビールの年間消費量は0.16本/人だったそうです。閑話休題。
さて、その博覧会場で配ったポスターに描かれていたのが新橋芸者の「ぽん太」。ぽん太が願麟麦酒のうちわを持って涼んでいる図でした。『御代の瑞』に載っている新橋の芸者を探すと、喜世子、〆子、笠松、ます、の四名だけで、ぽん太作の発句や都々逸はありませんでした。が、ぽん太の生年を明治13年とする資料があって、そうだとすればポスターに描かれた時のぽん太はたぶん十歳かそこら、『御代の瑞』の編集時でも11歳か12歳? 没年は大正14年享年46歳だったいう資料から逆算すると、それくらいの歳ということになりますが、本当かなあ、大いにサバをよんでないかいなと疑問がわきますね。ぽん太は17歳の時に落籍されたので、上の写真は少なくともそれ以前の少女時代ですが、さてみなさんどうですか?
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なぜ、ぽん太が起用されたか? 『御代の瑞』が発行される二年前に第三回内国勧業博覧会が開催されていますので、康目屋秋田柳吉はその頃には各地の遊郭とつながりを持っていなければ、あの冊子は編集できなかったでしょう。秋田は新橋のぽん太の起用を磯野に提案し、磯野はそれにGO!サインを出したと想像できせんか。その傍証というほどのことでもないのですが−。
ぽん太を落籍した鹿島(かじま)清兵衛は、新川の酒問屋の老舗鹿島屋の八代目。ぽん太と出会った頃は25歳すぎの写真狂の青年でした。片や秋田柳吾妻の貞は灘の辰馬家と縁ある家の出です。清兵衛と柳吉のふたりも、新川の酒問屋のどこかで出会ったかもしれません。辰馬家と鹿島屋の縁かいなあ、です。柳吉、ぽん太、清兵衛の三角関係がほの見えます。ぽん太と鹿島清兵衛ふたりのことは戸板康二の「鹿島清兵衛のぽん太」(『ぜいたく列伝』所収)、白州正子著『遊鬼』にくわしく措かれています。
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磯野計は麒麟麦酒の販売戦線に八面六管の活躍をしながら同時に、明治日本の産業振興に役立んものと、北越鉄道(JR信越線の前身)のレールを英国から調達したり等、シップチャンドラーの枠を超えて大きく飛躍しようとしていましたが、明治30年12月14日、ハイキン症?(竹越は急性肺炎)で急逝。享年わずかに39歳でした。明治政府と結託した三菱や三井という財閥とはあゆみを共にせず、貿易立国をめざした磯野の計画は夢と消えました。主亡き後の明治屋は12歳の一人娘菊子の成長を待ち望みつつ、計を支えた経営陣が堅実に「シップチャンドラーとしての明治屋」を引き継ぐことになりました。
次回は、補遺として「麒麟麦酒の大演説」「明治屋は月桂冠も扱った話」です。


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